組合結成のころ、乳用種子牛は酪農の副産物として、余り高度な利用がなされておりませんでした。乳用種肥育事業は、この乳用種子牛を本格的な牛肉生産に活用しようとするもので、全開連が提唱し、宮崎県でも試行的に取り組みを始めていました。
 当時、飼養戸数は75戸、平均35頭という小規模で、柱と屋根の簡単な畜舎で、約14ヵ月という短期間で出荷する生産方式でした。まだ十分な技術も確立されていないままのスタートでした。
 乳肥農協が最初に直面した難関は、昭和48年10月、第1次のオイルショックでした。狂乱物価の中、買い控えによる牛肉価格の暴落、あるいは生産資材高騰という板挟みの中で、スタート間もない乳用種肥育事業は大打撃を受けました。たちまち赤字経営に陥ってしまいました。
 こうした状況に対し、国での数次に及びます緊急対策が出され、乳肥農協でも信用基金への加入や融資条件の整備など強化を図りながら何とか経営をつなぐことができました。この畜産危機はこの後も幾度となく繰り返されました。
 乳用種肥育は出荷までの期間が長く、モト牛、枝肉ともに価格は不安定です。また、多額の運転資金を要するなどの要因が絡みあっており、経営の安定、継続のためには資金管理が極めて重要なポイントとなります。
 オイルショックなどさまざまな試練を経てたどり着いたのが1頭ごとの資金を管理する乳肥農協方式ともいわれる経営指導方式です。また、経営の安定、継続のためにはどうしたらよいか、組合員と真剣な議論を経て、つくり上げたものが組合事業推進要綱です。